まひろという名の駅前少女像:NHK「真剣10代しゃべり場 リターンズ!!」を読み解く
はじめに
2023/05/07 2:00ごろにNHKの「真剣10代しゃべり場 リターンズ!!」にて、学生討論を題材にした番組の再放送があった。日頃から教育に関する研究を行っていることもあり、加えて長らくコミュニティの作り方、議論の仕方にも関心を持ってきた。それで強く興味を惹かれ、引き込まれるようにして全編を見た。テーマは素朴に「私たちは本音で語り合うべきかどうか」。
真剣10代しゃべり場 リターンズ!!「もっと本音をぶつけ合おうよ」
5/7(日) 午前1:55-午前2:38
配信期限 :5/14(日) 午前2:38 まで
全国の10代がNHKに集結し、恋愛・教育・死生観などさまざまなテーマでトークバトルを繰り広げたかつての番組「しゃべり場」が再び戻ってくる!今回は「もっと本音で話そう!」との高3の主張から議論がスタート。「本音を言い合わないから不祥事が起きる。このままでは社会がよくならない!」と訴えるが、ほとんどのメンバーが後ろ向きだと分かり…。果たして思いは伝わるのか? 大人ゲスト:野性爆弾・くっきー! #君の声
基本的にはこの番組説明の通りの内容だった。今回はまひろという高校生が、誰しも社会的なものに関心をもって自分の意見を発言すべきであると述べ、それに様々な出自の10代が意見を述べるというものだ。僕自身中学高校を通じて同様の考えを持っていたので、議論を提起したまひろに自分を重ねながら番組を見た。生徒会長としての自分の体験を語りながら社会的なものに関心をもつべきというまひろの発言には首を振り、もっとうまく言えそうなときはなんでもっとうまく言えなかったのかと自分ごとのように悔しがり、それに関心を持ってもらえない反応にはかつての孤独感を思い出しながら見た。最後までまひろはまともな理解者を得られることなく、番組はまひろが誰もいなくなった会場で静かに涙を流す痛切なシーンを写して終わる。会話は基本的にすれ違っており不毛なもので、番組終了から数えて数回目という最後の最後の発言で、ギリギリ、前提を話し終え、メンバーがまひろと同じ土俵に立つ瞬間があったというぐらい(そのとき見えた世界は、それはまた誰にもどうしようもない、解決の見えない荒野だったのだが)。
今回はこの議論を僕自身の立場から捉えなおす。基本的に私はまひろの擁護者である。本論を通じて、まひろへの反論の中に眠る無責任と貧困を喝破し、議論の場においてまひろが不本意にも圧倒的象徴として君臨することになったこと、まひろの象徴性は番組の枠を超えて機能しうること、そして最後に、無責任な人々の輪(和)を超え出たまひろの象徴性が番組を通じてその特殊性が剥奪され、一つの「駅前少女像」へと塗り固められ、ただ痕跡だけをこの荒野に遺すだろうことを述べる。
読解1:貧困としてのまひろへの無理解
誰しも社会的なものごとに関心を持ち本音で発言すべきであるというまひろの主張に対し、メンバーの主張は大変冷ややかなものだった。様々な否定的意見が浴びせられた
協力的だが噛み合っていない意見
万人を説得することは難しい。まずは賛同者を集めてその中での活動に注目すべき
相手が変わることを待つべきではなく、どのようにすれば意見を言いやすくなるのかを能動的に考えるべきである
なんらかの貧困を根拠とする意見
私は授業中に自分の事情で授業を遅らせてしまって教師からの怒りをかったことがあるので、自分の意見をいうべきだとは思わない
仕事が忙しく逼迫しているので、そんな余裕はない。
本音なんかそもそもない。
関心のある人だけでどうにかしてくれたらいいと思っている。
いまは平和だから現状維持でいいのでは?
一部協力的と見えるコメントもある(「万人を説得することは難しい。まずは賛同者を集めてその中での活動に注目すべき」、「相手が変わることを待つべきではなく、どのようにすれば意見を言いやすくなるのかを能動的に考えるべきである」)が、まひろの回答は「すでにやっている」というものだった。つまりまひろはすでに妥協的現実的選択肢を行使した上で「誰しも関心をもち、社会的なことに本音をいうべきである」と述べていたのであって、そこにあらためて妥協的現実的選択肢を勧めるのは、(お互い知らなかったので仕方ないことだが)やや噛み合っていない。
まひろの主張に反発する人々は社会に対し依存的・受動的である。まず事実として、社会的なことに本音を言わないで万事うまくいくようにはこの社会は(まだ)できていない。自分の生活の基盤に、その成立に必要な注意を払うこと自体を拒否する態度を無制限に容認する態度を肯定するのは難しい。番組中の反論にもあったように、金銭面の逼迫や最低限の文化的素養・環境の欠如など、貧困の産物として捉えられるべきであろう。
私が言いたいのは、そもそもまひろの主張に応答するには「そうだよね。でも実際は難しいんだよね」から議論を始める必要があるということだ。一旦Yesで回答したうえで、その実践の問題を話すべきだったのである。特に有害だったのは「関心のある人だけでどうにかしてくれたらいいと思っている。」という意見。これ自身が「どうにか」してくれている人々への敬意と感謝を失った言葉であり、社会を良くしたいとの思いから「どうにか」しようとする人々を孤独へと突き落とす。その口先で問題の再生産を行っているわけである。
このような意見の一方、まひろの言う社会的な話題の重要性を理解して生きる態度は、それそのものが生きる意味をもたらす「豊かさ」に繋がる。自分がどのような人々や制度に支えられているのかを意識しながら生きることにつながるのだから。豊かな生き方への道筋を万人にもたらそうとするまひろと、その他のメンバーが反論の根拠とする個別の貧しさというコントラストは、埋めようもなかった。
読解2: まひろの代理受傷と象徴化
まひろの主張にいくつか有効な反論もあり得たことも確かである。
社会への参加の必要性を知らなかったこと、必要性を理解できないことは責められるべきことではない。
関心を持ったからと言って社会が直ちに変わるわけではなく、関心をもったとしても個人ではいかんともし難い困難の山がそこに待ち受けている。
社会は万人を含むものだから、そもそも能動的に参加するものではない。気づいたら参加させられている暴力性がそこにある
これらの反論が、議論を通じてまひろに突き刺さった。「本音がないのが本音」ということだ。人間の避けようもない受動性・依存性、社会が避けようもなく持っている暴力性・多様性。これらをまひろが人間の愛おしい愚かしさとして捉えることができるのか、それとも絶望し、夢をくじいてしまうのか。まひろは試練を課されている。
そして、このような試練に直面し、傷つく様が、「社会をよくしたい」と考えるすべての人々に、見知った孤独を追体験させる。「社会をよくしたい」と少しでも考えたことがあるなら、この種の孤独には誰しも直面するものだ。我々はまひろの受傷経験を目撃することを通じて、「社会をよくしたい」と考える同士が自分の他にも確かに存在していることを知り、孤独をともに味わい、私もここにいるぞ、と叫ぶ動機を人々に与える。まひろが人々に声を与え、まひろは象徴化されていく。まひろは対等な議論の場で「特別でないこと」として社会を語りたかった。それにも関わらず、その対話の失敗が多くの人を刺激し、結果的に特殊化・象徴化されてしまうのである。
読解3: 駅前の少女像
しかし、視点を共有しないメンバーにとって、まひろは象徴的な存在であり得ただろうか? 特に、社会に関する議論は自分のやるべきことでないと考えている人物、他人がやればいいと思っている人物にとって、まひろは縁遠い存在である。その意見がどのように正しいと理解しても、せいぜいが押し付けがましく実感の籠もらない「駅前の少女像」程度の存在であろう。それは、SNSにおいてまひろに嫌悪や反対を示す人々にとっても同様である。
さらには、唯一無二の象徴的体験をした我々にとっても、一晩明けて醒めた目で見れば、政治家を含む多数の活動家の主張と比べれば、ありがちなお題にありがちな議論が行われただけのことのようにも見えてくる。象徴的体験の記憶を維持することはかように難しく、まひろの姿は遅かれ早かれ駅前の喧騒にかき消えていく。
そうして、まひろのもたらした象徴的体験は像の中に塗り固められ、人々はその下を足早に通り過ぎるようになるだろう。私もまた、その像を足元から見上げる一介の通行人にすぎないのかもしれない。願わくば、その肩にとまる小さな理解者でありたいものだが。
さいごに
どのような読解であろうと、現実に存在するまひろの行動にこそ、常に逆転の可能性が残されている。駅前の像がなんたるものかと私の読解を吹き飛ばし、きっと社会に良き変革をもたらしてくれると期待している。無論私も指をくわえて見ているわけにはいかない。誰しも自らにできることを順を追ってやっていくほかはないが、まひろのような存在の認識を通じて自らを奮い立たせ、日々勇猛果敢に挑んでいきたいものである。